NHKで放送されていた某大学の特別授業。
とある有名な学者さんが、学生や一般人に向けて、講義していたのですが…。
その中で、興味深い事件が紹介されていました。
簡単に要約すると以下の通りです。
ある時、海で遭難してしまった4人の男達。
船長と二人の乗組員と一人の給仕の少年。
彼らは何とか数少ない食料で数日を凄し救助を待ち続ける。
しかし、一向に救助が現れる気配はなく、食料も底をつき始めた。
そんな時、船長が二人の乗組員を呼び寄せ、一つの提案をする。
「あの少年は孤児院出身で家族はいない、しかし我々には家族が待っている」
「ここで死ぬわけにはいかないし、あの子は病気で死んでしまいそうだ」
「あの子を殺そう」
二人の乗組員と船長は、少年を殺害し、その肉を食らって、飢えを凌ぐ。
そして、救助が現れ、三人は無事に救出されたのだった。
本国へと帰った三人は裁判にかけられた。
もちろん、少年を殺害した容疑だった。
さて、あなたは、この事件どう思いますか?
自分は裁かれるべきか否かよりも、人間の本能の怖さを感じました。
そして、この三人は裁かなくても良いという学生の意見にゾッとしました。
「少年には家族もおらず、悲しむ者もいない。
船長にも乗組員にも家族がいて、彼らが死ぬと嘆き悲しむ者がいる。
自分の死を悟った時、少年は殺害されることを許諾したと思う。」
これが、学生の意見です。
少年が殺害されることを許諾したと思う事よりも、命の重さに差をつけたことにゾッとしました。
例え、家族がおらず、悲しむ者もいないとしても、少年には未来がありますよね。
もし、無事に本国へ帰れて、成長した彼は恋もするだろうし、友達も出来るだろう。
そんな未来を奪った事は許されることなのでしょうか?
問題は「死んだ者を食らった」ことよりも、「食らうために殺した」ことだと思います。
命の重さに差をつけて、自分たちが生きるために生きている者を殺したことだと思います。
もし「少年が衰弱死してしまった」後で、「自分たちが生きる」ために食らったのであれば、ここまで問題視されることはなかったと思います。
とある有名な学者さんが、学生や一般人に向けて、講義していたのですが…。
その中で、興味深い事件が紹介されていました。
簡単に要約すると以下の通りです。
ある時、海で遭難してしまった4人の男達。
船長と二人の乗組員と一人の給仕の少年。
彼らは何とか数少ない食料で数日を凄し救助を待ち続ける。
しかし、一向に救助が現れる気配はなく、食料も底をつき始めた。
そんな時、船長が二人の乗組員を呼び寄せ、一つの提案をする。
「あの少年は孤児院出身で家族はいない、しかし我々には家族が待っている」
「ここで死ぬわけにはいかないし、あの子は病気で死んでしまいそうだ」
「あの子を殺そう」
二人の乗組員と船長は、少年を殺害し、その肉を食らって、飢えを凌ぐ。
そして、救助が現れ、三人は無事に救出されたのだった。
本国へと帰った三人は裁判にかけられた。
もちろん、少年を殺害した容疑だった。
さて、あなたは、この事件どう思いますか?
自分は裁かれるべきか否かよりも、人間の本能の怖さを感じました。
そして、この三人は裁かなくても良いという学生の意見にゾッとしました。
「少年には家族もおらず、悲しむ者もいない。
船長にも乗組員にも家族がいて、彼らが死ぬと嘆き悲しむ者がいる。
自分の死を悟った時、少年は殺害されることを許諾したと思う。」
これが、学生の意見です。
少年が殺害されることを許諾したと思う事よりも、命の重さに差をつけたことにゾッとしました。
例え、家族がおらず、悲しむ者もいないとしても、少年には未来がありますよね。
もし、無事に本国へ帰れて、成長した彼は恋もするだろうし、友達も出来るだろう。
そんな未来を奪った事は許されることなのでしょうか?
問題は「死んだ者を食らった」ことよりも、「食らうために殺した」ことだと思います。
命の重さに差をつけて、自分たちが生きるために生きている者を殺したことだと思います。
もし「少年が衰弱死してしまった」後で、「自分たちが生きる」ために食らったのであれば、ここまで問題視されることはなかったと思います。
#
by tosinee
| 2010-12-05 16:32